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きっかけそのものは本当に些細なこと。でも私が子供の頃からの母との関係の中で、繰り返されてきた相容れない部分に関係することだったため、びっくりするくらいの怒りを爆発させてしまった。
私の母は、気の良い人だ。でもおおらか過ぎて、善意の塊すぎて、少し人の気持ちに鈍感なところがある。
「自分が良いと思ったことは、相手も喜ぶこと」と何の疑問もなく信じているのだ。そこに価値観の相違、とか生まれ育った環境の違いとか、考え方や感覚の違い、といったことは入り込む余地がない。
私はどちらかというと人の価値観や考え方の多様性があって当たり前、人と自分は違っていて当たり前、よく言えば「相手の気持ちや考え方を尊重する」、悪く言うと「最初、相手がどうしていいか分からなくなるくらい人との距離をとりすぎる」というタイプなので、母のような人から見ると
「何を怒っているのか、何が嫌なのか、わけがわからん」ように見えるらしい。
まあ、そういう背景があって諍いがあり、母が一人で日課であるスポーツジムに出かけた後のこと。
次男が私をじっと見つめるので、
「ごめんね。ママ、婆ちゃんと喧嘩しちゃった。○○ちゃんは何も悪くないし、何も心配しなくて大丈夫だからね」
とあやまった。そんな私に向かって次男は
「ママ、婆ちゃんと喧嘩しちゃったの?ダメだよ、仲良くしなきゃ。婆ちゃんにごめんなさい、いわんといけないね」と可愛い声で言ってくれた。その幼い声と、まるで大人のような口調とのギャップに、怒りでささくれた心が思わず癒され、気を取り直して次男の英語教室に向かうことができた。
今年度4歳になる子供たちとその母親、そして優しい女性の先生と、みんなが参加する形の幼児向けの英語教室。入会したての頃は親子ともども結構緊張していたが、母親同士の年齢は違っても、不思議と子供同士を介して楽しい時を過ごせるようになった。授業の間はもちろん遊びながらの英語の学習がメインであるが、子供たちと一緒になって、英語の歌を歌ったり、手を繋いで踊ったり、英語でちょっとしたやり取りをしたりしているうちに気持ちが明るく、晴れていくのがわかる。
合間に
「○○ちゃん、どこの幼稚園?」
「うちは…」
「ああ、通園バスが…」などと言葉を交わす。
別に立ち入った話などしない。たわいない会話と、多分教室が終われば他の場所でわざわざ会ったりはしない「水魚の交わり」的な、ごく淡い関係。でもそれがとても心地よいのだ。いつの間にか私は穏やかな、平常の精神に戻っていた。それがとても嬉しく、有難かった。
「怒りで我を忘れる」とはよく言ったものだ。激しい怒りは「真我」の対極に位置する。
今日、私は修行者ではないけれども、確かに「神である」人々にそれを思い出させてもらうことができた。私は自分が属するこの世界、それが大げさなら地域社会に、身近に接する人々に助けられたのだ。ならば自分にも同じことができるはず。気負うことなく自分の役割を演じてゆこう。なるべく神たる本質、真我に近づく役割を。師のおっしゃるとおり、この世は舞台なのだ。
何気ない日常の中に自分の存在意義の確かさを感じる。
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